自分の一部(大部分)が死ぬ byあゆみ





まここは、13日から15日まで北九州です♫

私はお泊りできないので、
今日・明日、まここは夜、1人でホテルです。

寂しいだろうなあ・・・

早起きして会いに行こうと思います!

 

そうそう、まこちゃんも書いてくれてるとおり、

今日は1年4ヶ月の記念日でした!
まだそんなにたってないんですね~

気分的にはずっと連れ添ってる感あるのに。

 

自分の一部が死ぬ

 

平野啓一郎さんの新しいような古いような『分人』という概念。

私は、『空白を満たしなさい』という小説で平野啓一郎さんを知りました。

 

「本当の自分ってなんだろう?」
なんか暇な学生みたいですが。

 

私が10代のときに出した答えは、
本当の自分というのはない、偽物の自分というのもない、あるのは、自分の中で好きな自分と嫌いな自分だ、というもので。

 

そこから一切「本当の自分」について考えなくなりました。

 

なのですが・・・

2,3年ほど前、平野啓一郎さんの『分人』という考え方に触れ、「それが言いたかったわぁ」と、ググッと思い出したんですよね。

 

人間には、いくつもの顔がある。—私たちは、このことをまず肯定しよう。相手次第で、自然とさまざまな自分になる。それは少しも後ろめたいことではない。どこに行ってもオレはオレでは、面倒くさがられるだけで、コミュニケーションは成立しない。だからこそ、人間は決して唯一無二の「(分割不可能な)個人 individual」ではない。複数の「(分割可能な)dividual」である。

 


私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

家族といるときの自分、
恋人といるときの自分、
友達といるときの自分、
職場の人といるときの自分、

 

また、
親といるときの自分と兄弟といるときの自分も若干違う側面を見せてるかもしれない。

友達によっても、多少自分の性格は違っているかもしれない、というか使い分けてるかもしれない。

 

その使い分けしてる自分をそれぞれ分人と呼ぶわけです。

 

そして、
ここから本題なんですが(笑)

 

平野啓一郎さんがテレビに出演してるときに語っていたことがものすごく印象に残っていて・・・

 

「どうして大切な人が亡くなると、こんなにも絶望的な悲しみがあるのか?」

 

もちろん、
その人に会えなくなる、
失うという意味でただただ悲しいというのはもちろんですが、

 

その理由の1つに、
その人との間だけで存在していた分人(自分の一部)を生きれなくなる

これも大きな理由ではないか?
と言っていて。

 

私も、まこちゃんにしか見せれない自分、まこちゃんだから見せれる自分がいて、それは家族にも友達にも見せれない自分。

まこちゃんといるときの自分(分人)が好きなのに・・・

まこちゃんを失ったら、私はこの分人を生きれなくなるわけで。

 

だから思ったんですよ、
もしも、まこちゃんを失ったら、まこちゃんとの間で存在してる分人は生きれなくなる、

 

それはつまり、
私の一部(大部分)が死ぬことだ!と。

 

ものすごい恐怖だな、それって、と。

 

また違う恋人ができたら再生するんじゃ?(笑)

 

あは

 

再生は不可能です。

そう思ってる相手だからこそ、
人生のパートナーになってもらうわけですからテヘ

 

最近そう思って、
自分にとってどれくらい相手が必要なのか大事なのか身にしみました。

 

【ポッカリ穴があく。】

 

そして、ポッカリ穴があくんだ~と想像すると本当に悲しくなって、

 

「失っても心の中で生き続けるなら、
私の分人は私の心の中で生き続けることができるのか?」なんて考え始めてしまい・・・

 

なんか・・
色々シュミレーションしてしまいました。

 

心の中で生き続ける練習とか、

してみましたよ。

まさか私が仕事中にそんな練習してるとは・・・。

何してるんだろう?と思って我に返りましたが!

 

まここがどれくらい好きか?
そんくらい好きですよ

伝わりましたよね?ね?




 

 

ご訪問頂きありがとうございます

たくさんのサイトが載っているので参考にどうぞ

↓↓


同性愛(ノンアダルト) ブログランキングへ
にほんブログ村 セクマイ・嗜好ブログ ビアンの恋愛へ
にほんブログ村

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です